情報公開資料

定款

第1章 総則

(目的)

第1条 この土地改良区は、農業用用排水施設の維持管理並びに農業生産の基盤の整備及び開発を図り、もって農業の生産性の向上、農業総生産の増大、農業生産の選択的拡大及び農業構造の改善に資することを目的とする。

(名称及び認可番号)

第2条 この土地改良区は、愛谷堰土地改良区という。

 この土地改良区の認可番号は福第31号である。

(地区)

第3条 この土地改良区の地区は次に掲げる地域(その地域内にある土地のうち土地原簿の記載に係る土地以外の土地を除く。)とする。

市町村名

いわき市

大字名(字名)地域

平北白土(宮前、上河原、知原、上平、宮田、札場、田代、塩取、穂積、ネキ内、西ノ内、堀ノ内、宮脇)一円の田

平山崎(明シ内、田仲島、川田、沼田、矢ノ目、小才内、熊ノ宮、小茶円、金沢、馬場、鼠内、山岸、根木内、八ツ、谷田川)一円の田、畑

平菅波(礼堂、宮前、九日田、明星町、数町、柿作、フケ、行人下、湯崎、籠石、西ノ内、寺入、菅波入、太郎作、太鼓田、井作、南作、永井、東作、稲荷前、腰巻、新屋敷、砂畑、永南)一円の田、畑

平荒田目(山根、八反田、甲塚、反町、本町、大町、田中内北、田中内南、中田、石崎、高原、古川)一円の田、畑

平上大越(岸前、八ツ手、沼畑、上袋、川久保、内代、塚越、五味作、石淵、石崎、大乗坊、北作、中丸)一円の田、畑

平下大越(留塚、岸前、中北、中ノ町、山ノ神、沢帯、北横手、清水、南横手、正慶、川和久、深田、石田、根廻、細田、柳葉、北萱野、高畑、大麦畑、堀川、屋貸内、根岸、北作、南作、上ノ内作、南萱野)一円の田、畑

平藤間(南町田、北町田、川田、横淵、柴崎、鯨、安養原、林、中谷地、沼田、川前、大平、千ヶ久保、新林、松原、北谷地、辰ノ口、筒前、堤下、中之内、トウボウジ、藤間作、内出)一円の田、畑

平下高久(大平、北谷地、中谷地、南谷地、下原、原、牛転、大和久、水門、定田、原極、川和久、八幡、清水、中妻、久保ノ作、古川、袴田)一円の田

平赤井(一の町、二の町、三の町、四の町、五の町、六の町)一円の田

(事業)

第4条 この土地改良区は、土地改良事業計画、定款、規約、管理規程及び利水調整規程の定めるところにより、次に掲げる土地改良事業を行う。

一.夏井川及び滑津川から引水する農業用、用排水施設の新設及び変更(更新)

二.前号に関連する施設の維持管理

三.地区内における区画整理

四.地区内における農道の新設、改修及び維持管理

五.地区内において一体事業として施行する農業用用排水施設の新設及び変更(更新)並びに区画整理及び農用地の造成

 この土地改良区は、前項各号の事業に附帯して次に掲げる事業を行う。

一 農地中間管理機構から委託を受けて行う事業

二 農地維持、資源向上等の多面的機能発揮促進事業を行う活動組織に参画して行う当該事業及び当該活動組織から委託を受けて行う事業

3 この土地改良区は、第1項各号の事業に附帯し、その事業を害しない範囲内で当該施設を他の目的に使用させることが出来る。

4 この土地改良区は、県営事業によって造成された施設を管理委託された場合はこれを受託し、施設の譲与又は引き継ぎを受けた場合はこれを管理する。

(事務所の所在地)

第5条 この土地改良区の事務所は、福島県いわき市平上大越字沼畑1番地の1に置く。

(公告の方法)

第6条 この土地改良区の公告は、事務所の掲示場に掲示してこれをする。

 前項の公告の内容は、必要があるときは書面をもって組合員に通知し、又は福島民報新聞に掲載するものとする。

第2章 会議

(総代会)

第7条 この土地改良区に、総会に代るべき総代会を設ける。

(総代の定数)

第8条 総代の定数は30人とする。

(総代の選挙)

第9条 総代は、組合員が総会外においてこれを選挙する。

2 この定款に定めるもののほか、総代の選挙に関し必要な事項は、附属書総代選挙規程で定める。

(総代の任期)

第10条 総代の任期は、4年とし、総選挙により選挙された総代の就任の日から起算する。ただし、土地改良法(以下「法」という。)第23条第4項において準用する法第29条の3第1項の規定による改選並びに法第136条の規定による選挙又は当選の取消しによる選挙によって選挙される総代の任期は、退任した総代の残任期間とする。

2 前項ただし書に規定する選挙が、総代の全員にかかるときは、その任期は、前項ただし書の規定にかかわらず4年とし、その就任の日から起算する。

(総代の失職)

第11条 総代がその被選挙権を失ったときは、その職を失う。

(通常総代会の時期)

第12条 この土地改良区の通常総代会の時期は毎事業年度1回3月とする。

(組合員の請求による会議招集)

第13条 組合員が、総組合員の5分の1以上の同意を得て、会議の目的である事項及び招集の理由を示して、書面により総代会の招集を請求したときは、理事は、その請求があった日から20日以内に総代会を招集しなければならない。

(書面又は代理人による議決)

第14条 やむを得ない理由のため、総代会に出席することができない総代は、あらかじめ通知した事項について、書面又は代理人により議決権を行うことができる。

2 書面により議決権を行おうとする総代は、あらかじめ通知のあった事項について、書面にそれぞれ賛否を記載し、これに署名又は記名押印の上、総代会の会日の前日(通知で別に定めたときは、その日時)までにこの土地改良区に提出してしなければならない。

3 総代の代理人は、書面により代理権を証明しなければならない。

(議決方法の特例等)

第15条 総代会においては、定款の変更、土地改良事業計画の設定、変更、土地改良事業の廃止、役員の改選、規約の設定、変更及び廃止、管理規程の設定、変更及び廃止、利水調整規程の設定、変更及び廃止並びに合併及び解散その他重要な事項を除いて、急施を要することが明白である事項に限りあらかじめ通知した事項以外の事項であってもこれを議決することができる。

第16条 経費の収支予算を議案の全部又は一部とする総代会を招集して、総代の半数以上の出席がないため、さらに20日以内に同一の目的で招集された総代会の議事は、経常経費の収支予算並びにこれに伴う賦課金及び夫役現品の賦課徴収の時期及び方法に限り総代の3分の1以上が出席し、その議決権の過半数で決することができる。

(議長)

第17条 総代会の議長は、出席した総代のうちから当該総代会で選任する。

(総会)

第18条 第13条から前条までの規定は、総会について準用する。

第3章 役員

(役員の定数)

第19条 この土地改良区の役員の定数は、理事5人、監事2人とする。

2 前項の理事定数のうち、3人は、組合員であって耕作又は養畜の業務を営む者(組合員である法人の業務を執行する役員を含む。)とする。

3 第1項の監事定数のうち、1人は法第18条第6項各号の全てに該当する者とする。

(役員の選任)

第20条 役員は、総代が総代会において選任する。

 この定款に定めるもののほか、役員の選任に関し、必要な事項は、附属書役員選任規程で定める。

(理事長)

第21条 理事は、理事長1人を互選するものとする。

第22条 理事長は、この土地改良区を代表し、理事会の決定に従って業務を処理する。

 理事は、あらかじめ理事の互選によって定められた順位に従い、理事長に事故あるときはその職務を代理し、理事長が欠員のときはその職務を行う。

(事務の決定)

第23条 この土地改良区の事務は、理事の過半数により決するものとする。ただし、規約の定めるところにより、軽易な常務については、理事長の決するところによる。

(監事の職務)

第24条 監事は、少なくとも毎事業年度2回この土地改良区の業務及び財産の状況を監査し、その結果につき総代会及び理事会に報告し、意見を述べなければならない。

 監査についての細則は監事がこれを作成し、総代会の承認を受けるものとする。

(役員の任期等)

第25条 役員の任期は4年とし、役員の就任の日から起算する。ただし、法第29条の3第1項及び第134条第2項の規定による改選並びに法第136条の規定による決議の取消による選任並びに補欠選任によって選任された役員の任期は、退任した役員の残任期間とする。

2 前項ただし書に規定する選任が、役員の全員にかかるときは、その任期は、前項ただし書の規定にかかわらず4年とし、その就任の日から起算する。

(役員の失職)

第26条 理事又は監事がその被選任権を失ったとき又はその所属する被選任区を異動したときは、その職を失う。

第4章 経費の分担

(経費分担の基準)

第27条 第4条第1項第1号、第2号、第5号及び第3項の事業に要する経費に充てるための賦課金及び夫役現品は、予算の定めるところにより、組合員に対し、当該事業の施行に係る土地につき地積割に賦課する。ただし、この土地改良区の管理外の夏井地区の溜池を水源とする受益地で、常時補給水として、この土地改良区が管理する用水路から組合員自ら揚水機により用水を使用する田については、用水受益地の3分の1とする。なお、それ以外の夏井地区の田並びに畑については、無料とする。

 第4条第1項第3号及び第4号の事業に要する経費に充てるための賦課金及び夫役現品は、予算の定めるところにより、当該事業の施行に係る土地につき地積割に賦課する。ただし、換地処分の公告のあった後においては、当該換地処分に係る換地計画において定められた換地交付基準地積に比例して賦課する。

 前2項の規定にかかわらず各事業に共通する土地改良区の運営事務費に要する経費に充てるための賦課金は、この土地改良区の地域内にある土地の全部につき地積割に賦課する。

(負担金及び分担金)

第28条 この土地改良区は、法第91条の規定に基づき県営土地改良事業の分担金を負担する。

(賦課徴収の方法)

第29条 前2条の規定による賦課金及び夫役現品の賦課徴収の時期及び方法並びに夫役現品の金銭換算の基準は総代会で定める。

(夫役の履行)

第30条 夫役を賦課された者は、その便宜に従い本人自らこれに当り又は代人をもってこれを履行することができる。

 前項の規定による履行については、金銭をもって代えることができる。

(特別徴収金)

第31条 法第36条の3の規定に基づく特別徴収金は、土地改良法施行令第47条の規定に該当する場合において当該返還すべき補助金等の額を徴収する。

第32条 この土地改良区は、法第91条の2の規定に基づき県営土地改良事業に係る特別徴収金を負担する。

 前項の場合には当該特別徴収金に充てるためその特別徴収金の原因となった行為をした組合員から当該特別徴収金に相当する額を徴収する。

(督促)

第33条 法第39条の規定に基づく督促は、その納付期限後60日以内に督促状を発してこれをするものとする。

(過怠金)

第34条 第27条、第28条、第31条又は第32条の規定により賦課された賦課金又は夫役現品につきこれを滞納し、又は定期内に履行せず若しくは、夫役現品に代わるべき金銭を納めない場合には、その延滞の日数に応じて、滞納額につき、納期限の翌日から2月を経過する日までは、年2.6%、その翌日以後は、年7.3%の割合でそれぞれ計算した額の延滞金並びに督促状を発した場合には督促手数料100円を過怠金として徴収する。

 前項の滞納金又は過怠金を市が処分する場合には、さらにその徴収金額の百分の四に相当する額を過怠金として徴収する。

 前2項の過怠金は、特別の事由があると認める場合に限り理事会の決定によりこれを減免することができる。

第5章 雑則

(係及び委員会)

第35条 この土地改良区の事務を分掌させるため、規約の定めるところにより、理事会の補助機関として係を置く。

 この土地改良区の事業の運営を公正かつ適切にするため、規約の定めるところにより、理事会の補助機関として委員会を置く。

 理事会は、前2項に規定する各係又は各委員会ごとに担当理事を定める。

(加入金)

第36条 新たにこの土地改良区の地区に編入される土地があるときは、その土地につき加入金を徴収する。

 前項の加入金の額は、1,000㎡につき金3,000円の範囲内において総代会の議決により定める。

(賦課金以外の徴収金についての過怠金)

第37条 前条の規定による加入金、法第42条第2項の規定による決済により徴収すべき金銭、法第53条の8第2項の規定により徴収すべき金銭、同条第3項の規定により徴収すべき仮清算金及び換地計画において定める清算金については、第34条の規定を準用する。

(基本財産)

第38条 この土地改良区に基本財産を設けることができる。

 前項の基本財産の設定、管理及び処分に関しては、規約で定める。

(財産の分配制限)

第39条 この土地改良区の財産については、解散(合併の場合を除く。)のときでなければ組合員に分配することができない。

(事業年度)

第40条 この土地改良区の事業年度は、毎年度4月1日から翌年度3月31日までとする。

(電磁的方法)

第41条 この定款の規定により、書面を交付することとされる通知その他の行為については、規約の定めるところにより、書面の交付に代えて、電磁的方法により行うことができるものとする。

2 この定款の規定により、作成、保存又は縦覧を行う書面については、規約の定めるところにより、書面に代えて、電磁的記録により行うことができるものとする。

(委任)

第42条 この土地改良区の管理運営に必要な事項は、この定款に定めるもののほか、規約で定める。

附則

1.土地改良区の一部を改正する法律(昭和47年法律第37号)附則第6号の規定により同法による改正後の特別徴収金に関する規定を適用しないこととされる土地改良事業の施行に係る地域内の農地の転用または開田に伴い徴収する賦課金については、第27条の2及び第27条の3の規定にかかわらず、なお従前の例による。

[略]

21. この定款は知事の認可した日(福島県指令農整第15号令和2年4月2日)から施行する。

規約

第1章 総則

(趣旨)

第1条 この土地改良区の管理運営に関しては、法令、法令に基づく行政庁の処分及び定款に別段の定めがあるもののほかは、この規約による。

第2章 会議

第1節 総代会

(開議・散会)

第2条 会議は、あらかじめ通知した時刻に始め、通知した時刻に終わる。但し、総代会において特に議決したとき又は議長が必要と認めたときは、時間を伸縮することができる。

(出席)

第3条 総代は、総代会に出席したときは、総代会の招集者にその旨を届け出るものとする。

2 代理人は、入場の際に委任状を総代会の招集者に提出し、総代会の招集者は、これと引換えに代理証票を交付するものとする。

(開会)

第4条 総代の招集者は、出席人員が定数に達したときは、これを報告して開会を宣し、議長の選任を総代会にはかるものとする。

(議事録記名人の選任)

第5条 議長は、議事の開始にあたり、総代会の承認を得て議事録記名人2人を指名するものとする。

(議長の職務)

第6条 議長は、議事の進行をはかるほか、議場の整理に必要な措置をとることができる。ただし、総代の発言を不当に制限してはならない。

(中途退場)

第7条 総代は、会議中みだりに議場を退くことができない。ただし、止むを得ない事由があるときは、議長の許可を受けて退くことができる。

(議事)

第8条 議案は、議長が先ず議題を宣告し、提案者の説明、これに対する質疑、討論及び採決の順により確定する。

(発言)

第9条 発言しようとする者は、議長の承認を得なければならない。

2 発言は、議題以外のことにわたってはならない。

(動議)

第10条 総代は議事の進行を妨げない限り、他の4人以上の賛成を得て議長に動議を提出することができる。

2 前項の動議が提出されたときは、当該動議が定款第15条の規定による議決できる事項に限り、これを議案として付議すべきかどうかを総代会にはかるものとする。

3 第1項の動議が議案の修正の動議である場合には、先ず修正動議について採決する。ただし、修正動議が2以上あるときは、その趣旨が原案ともっとも異なるものから順次に採決する。

4 動議を提出した者がこれを撤回しようとするときは、その動議の提出に賛成した者の同意を得なければならない。

(採決の方法)

第11条 採決は、挙手、起立又は投票のいずれかの方法によるものとし、議長は、採決の都度総代会にはかって決定する。

2 代理人は、採決にあたり代理証票を明示して賛否を表示しなければならない。

3 議長は、書面による議決を加えて、採決の結果を宣言する。

(委員会付託)

第12条 総代会で必要と認めるときは、総代会の期間内において委員会を設置し、これに付託して議案その他の審議をさせることができる。

2 委員会の委員は、総代会において出席した総代(書面又は代理人をもって議決権又は選挙権を行う者を除く。)のうちから選任する。

3 委員会に付議した議案は、委員会の審査の結果の報告をきいて採決しなければならない。

4 委員会の運営その他必要な事項は、総代会で定める。

(議案・動議の再提出禁止)

第13条 否決された議案は撤回され、若しくは議案として付議されなかった動議は、再び同一の総代会に提出することができない。

(禁止行為)

第14条 会議中は、私語その他議事を妨げる行為をしてはならない。

2 会議中総代が議場の秩序をみだすときは、議長は、これを警告、制止し、又は発言を取り消させる。命に従わないとき、議長は、当日の会議が終るまで発言を禁止し、又は議場の外に退去させることができる。

(議決事項等の報告)

第15条 総代は、総代会で審議された事項及びその結果について、組合員への周知に努めるものとする。

(総会)

第16条 第2条から前条までの規定は、総会について準用する。

第2節 その他の会議

(換地計画等を定める会議)

第17条 土地改良法第52条第5項の会議並びに同法第53条の4第2項及び同法第99条第2項において準用する同法第52条第5項の会議には、第2条から第11条まで及び第14条の規定を準用する。

第3章 役員

第1節 総則

(役員の会議)

第18条 役員の会議は、理事会及び監事会とする。

(役員報酬)

第19条 役員に対する報酬、賞与その他の給与は、総代会で定める。

第2節 理事

(理事会)

第20条 理事会は、少なくとも毎事業年度4回開催するほか、理事長が必要と認めた場合又は、理事総数の3分の1以上の請求があった場合に開催する。

2 理事会の招集は、理事長が行なう。

3 理事長は、理事会を招集しようとするときは、5日前までに日時、場所及び議案を各理事に通知しなければならない。ただし、緊急止むを得ない場合はこの限りでない。

4 理事会の議長は、理事長がこれにあたる。

(理事会の付議事項)

第21条 理事会に付議する事項は、別に規定するもののほか、次のとおりとする。

(1)定款、規約、管理規程、利水調整規程及び総代会の決議により、理事会に委ねられた事項。

(2)総代会の招集、土地改良法第52条第5項並びに同法第53条の4第2項及び同法第99条第2項において準用する同法第52条第5項の会議の招集並びにこれらに提出すべき議案に関する事項。

(3)その他土地改良区の管理運営上必要と認める事項。

2 理事会は、軽易な事項については、理事長の専決に委ねることができる。

(理事会の議決方法等)

第22条 理事会の議事は、理事総数の過半数によって決する。

2 理事は、代理人によって議決に加わることはできない。

3 監事は、理事会に出席して意見を述べることができる。

4 理事会は、必要に応じ職員その他の者を出席させて意見を徴することができる。

(理事会の議事録)

第23条 議長は、次に掲げる事項を記載した議事録を調製しなければならない。

(1)開会の日時及び場所

(2)出席した理事及び欠席した理事の氏名

(3)議事の要領

(4)決議事項及び賛否の数

(5)議事録記名人の選任に関する事項

(6)その他議長が必要と認めた事項

2 議事録には、議長及びその会議において選任された議事録記名人2人以上が記名押印又は署名をしなければならない。

第3節 監事

(総括監事)

第24条 監事は、総括監事1名を互選する。

2 総括監事は、監事会を招集し、その議長にあたる。

3 監事は、あらかじめその互選によって定められた順序に従い、総括監事に事故あるときはその職務を行なう。

(監事会)

第25条 監事会は、少なくとも毎事業年度2回開催するほか、総括監事が必要を認めた場合又は他の監事の請求があった場合開催する。

(監事会の付議事項)

第26条 監事会に付議すべき事項は、次のとおりとする。

(1)監査計画に関する事項

(2)監査細則の設定、変更及び廃止に関する事項

(3)土地改良区と理事との契約又は争訟についての土地改良区の代表に関する事項

(4)土地改良法第27条(同法第52条第7項において準用する場合を含む)の規定による会議の招集に関する事項

(5)事業報告書、貸借対照表、収支決算書及び財産目録(以下「決算関係書類」という。)に係る意見書に関する事項

(6)その他監事の職務執行上必要と認めた事項

(監事会の議決方法等)

第27条 監事会は、2人以上の監事の出席がなければ議事を開くことができない。

2 監事会の議事は、監事総数の過半数で決する。

3 監事会は必要に応じ、理事、職員その他の者を出席させて意見を徴し、又は事情を聴取することができる。

4 監事会には、第23条の規定に準用する。ただし、「2人」とあるのは「1人」と読み替えるものとする。

第4章 業務の執行

(補助機関)

第28条 この土地改良区に次の係及び委員会を置く。

一.庶務係

二.会計係

三.工事係

四.評価委員会

五.換地委員会

六.用排水調整委員会

2 前項の係及び委員会に関する規程は、総代会で定める。

(会計主任、個人情報保護管理者及び管理責任者)

第29条 この土地改良区に会計主任、個人情報保護管理者及び管理責任者を置く。

2 会計主任、個人情報保護管理者及び管理責任者は、理事長がこれを命ずる。

3 会計主任は、この土地改良区の現金又は物品の出納その他会計事務をつかさどる。

4 個人情報保護管理者は、個人情報の保護に関する規程及び監査体制の整備その他個人情報の取扱いの監督を行う。

5 管理責任者は、愛谷頭首工管理規程の定めるところにより愛谷頭首工を管理する。

(職員)

第30条 前条に定める者のほか、この土地改良区に職員を1名置く。

2 職員の事務分掌に関する規程及び職員の服務、給与等に関する規程は理事会で定める。

(土地改良施設管理員)

第30条の2 土地改良施設の適正管理と用排水の水量調整のため管理員、水門操作員、水路看守人等を置くことができる。

2 土地改良施設の管理員等に関する雇用管理規程は理事会で定める。

(事業所等)

第31条 この土地改良区は、総代会の決議により、事業所、管理事務所、出張所又は見張所を設けることができる。

(執務時間)

第32条 この土地改良区の執務時間及び定例休日は、次のとおりとする。

一.執務時間

午前8時30分より午後5時までとし、正午より1時間は、休憩時間とする。

二.休日

土曜日、日曜日及び国民の祝日に関する法律第3条に定める休日のほか、12月29日より翌年1月3日までの期間とする。

(業務執行に関する細則)

第33条 理事会が必要と認めるときは、この規約の範囲内で別に業務執行に関する細則を設けることができる。

第5章 会計

(会計年度及びその独立の原則)

第34条 この土地改良区の会計年度は、事業年度の期間とする。

2 収入とは、一会計年度における一切の現金の収納をいい、支出とは、一会計年度における一切の現金の支払をいう。

(会計区分)

第35条 この土地改良区の会計は、一般会計及び特別会計とする。

2 特別会計は、特定の収入をもって特定の支出に充て一般の収入支出と区分して経理する必要がある場合において、総代会の決議によりこれを設置することができる。

(総計予算主義の原則)

第36条 一会計年度における一切の収入及び支出は、すべてこれを収支予算に編入しなければならない。

(予算の調整及び議決)

第37条 理事長は、毎会計年度、収支予算を調整し、年度開始前に、総代会の議決を経なければならない。ただし、初年度においては、土地改良区の成立後遅滞なくこれをしなければならない。

(収支予算の区分)

第38条 収支予算は、収入にあっては、その性質に従って款に大別し、かつ、各款中においてはこれを項に区分し、支出にあってはその目的に従ってこれを款項に区分しなければならない。

(予備費)

第39条 予算外の支出又は予算超過の支出に充てるため、収支予算に予備費を計上しなければならない。ただし、特別会計にあっては予備費を計上しないことができる。

2 予備費は、総代会の否決した費途に充てることができない。

(補正予算、暫定予算等)

第40条 理事長は、収支予算の調整後に生じた事由に基づいて、既定の予算に追加その他の変更を加える必要が生じたときは、補正予算を調整し、これを総代会に提出することができる。ただし、総代会を招集する暇がなく、かつ、当該会計年度の賦課金又は夫役現品に増減がない場合に限り、監事会の承認を経て理事会がこれを専決処分することができる。この場合には、理事長は、次の総代会にこれを報告し、その承認を求めなければならない。

2 理事長は必要に応じて、一会計年度のうちの一定期間に係る暫定予算を調整し、これを総代会に提出することができる。

3 前項の暫定予算は、当該会計年度の予算が成立したときは、その効力を失うものとし、その暫定予算に基づく支出又は債務の負担があるときは、これを当該会計年度の予算に基づく支出又は債務の負担とみなす。

(支出の方法)

第41条 会計理事は、理事長の命令がなければ支出することができない。

2 会計理事は、前項の命令を受けた場合においても当該支出が法令又は予算に違反していないこと及び当該支出に係る債務が確定していることを確認した上でなければ支出することができない。

(決算関係書類)

第42条 理事長は、毎会計年度の決算関係書類を監事の監査に付し、その意見を付けて次の通常予算を議する会議までに総代会の承認を受けなければならない。

(剰余金の処分)

第43条 各会計年度において決算上剰余金を生じたときは翌年度の収入に編入しなければならない。

(契約の方法)

第44条 売買、貸借、請負その他の契約は競争入札の方法によらなければならない。ただし、理事会の議決により、随意契約によることができる。

(余裕金の運用)

第45条 土地改良区の余裕金は、総代会の議決により、確実かつ効率的な方法により運用するものとする。ただし、余裕金の運用としては株式の取得は行わないものとする。

2 前項の規定にかかわらず、次の方法による余裕金の運用は理事会の議決によるものとする。

(1)金融機関への預貯金

(2)信託業務を営む銀行又は信託会社への金融信託

(3)国債証券、地方債証券、政府保証債券又は農林中央金庫若しくはその他の金融機関の発行する債券の取得

(4)特別な法律により設立された法人の発行する債券の取得

(5)貸付信託の受益証券の取得

(一時借入金)

第46条 理事長は、収支予算内の支出をするため、総代会で定めた最高額の範囲内で一時借入金を借り入れることができる。

2 前項の規定による一時借入金はその会計年度の収入をもって償還しなければならない。

(財務状況の公表)

第47条 理事長は、毎年度一回以上収支予算の執行状況並びに財産、借入金の現在高、その他財務に関する事項を組合員に公表しなければならない。

(会計に関する細則)

第48条 会計に関する細則は、理事会で定め、監事会及び総代会の承認を受けなければならない。

第6章 事業の施行

(工事の施行方法)

第49条 工事は、直営とする。ただし、理事会の議決により請負に付することができる。

2 この土地改良区は、理事若しくは監事が顧問、役員又は評議員の職を兼ねる会社その他の団体に工事の請負をさせることができない。

(一時利用地の指定及び使用収益の停止の通知等)

第50条 土地改良法第53条の5第1項の規定による一時利用地の指定又は同法第53条の6第1項及び第2項の規定による使用収益の停止は、理事会が換地委員会の意見に基づき行うものとする。

(一時利用地の指定等に伴う補償等)

第51条 土地改良法第53条の8第1項及び第2項の規定による損失に対し補償する額及び利益に対し徴収する額は、理事会が換地委員会の意見に基づき定めるものとする。

(農地利用集積計画作成の申出)

第52条 農業経営基盤強化促進法第18条第5項の規定に基づく農用地利用集積計画の作成の申出は、理事会が換地委員会の意見に基づき行うものとする。

(換地計画書の策定)

第53条 換地計画書は、各区ごとに理事会が換地委員会及び評価委員会の意見に基づき策定するものとする。

(従前の土地の地積等)

第54条 換地交付の基準とすべき従前の土地各筆の地積及び定款第27条第3項に規定する土地の地積は平成23年4月1日現在の土地原簿に揚げられた地積によるものとする。

2 従前の土地各筆の評定価額及び換地として定めるべき土地の評定価額は、理事会が評価委員会の意見に基づき策定するものとする。

第7章 基本財産

(基本財産の目的)

第55条 土地改良区財政の長期にわたる健全な運営に資するため、基本財産を設置する。

(基本財産の種類)

第56条 基本財産に属する財産は、次に掲げるものとする。

(1)山林、宅地及びその従物

(2)基本財産積立金

 ア.備荒積立金 災害、凶作等の場合のための積立金

 イ.事業積立金 土地改良事業等を行うために必要な積立金

(3)基本財産の運用により取得し又は基本財産のために寄付された有価証券

(4)財政調整基金(以下「基金」という。)

(基本財産積立金の積立)

第57条 毎年度基本財産積立金として積み立てる額は、次のとおりとする。

(1)備荒積立金 500千円以上

(2)事業積立金 年次積立計画による額

(備荒積立金の積立限度額)

第57条の2 前条第1項第1号に規定する備荒積立金の積立限度額は、5,000千円とし、当該金額に達したときは、積立を停止する。

(財政調整基金)

第57条の3 基金は、100,000千円とする。

(基本財産の管理)

第58条 基本財産に属する現金は、理事会の議決により、第45条第2項に掲げる方法のうち最も確実かつ効率的な方法により保管又は運用しなければならない。

(運用収益金の処理)

第59条 基本財産の運用から生じる収益は、予算に計上してこの基本財産に編入するものとする。

(基本財産積立の停止)

第60条 災害、凶作等の事由によりやむを得ない場合は、理事会の議決により、基本財産積立金を停止することができる。この場合においては、理事長は、次の総代会に報告し、その承認を求めなければならない。

(基本財産の処分)

第61条 基本財産は、総代会の議決を経てこれを処分することができる。但し、備荒積立金については、総代会を招集する暇がない場合に限り、監事会の承認を経て理事会がこれを処分することができる。この場合には、理事長は、次の総代会にこれを報告し、その承認を求めなければならない。

(基本財産積立金の一時運用)

第62条 理事長は、一般会計又は特別会計予算の支出をするため、理事会の議決を経て基本財産積立金を第58条の規定にかかわらず一時運用することができる。

2 前項の規定により、一時運用した積立金は、当該会計年度内に全額戻し入なければならない。

(基本財産台帳)

第63条 理事長は、基本財産台帳を作成し、その財産を種類別に記載しなければならない。

第8章 補則

(電磁的方法)

第64条 定款第41条第1項の電磁的方法は、次に掲げる方法をいう。

一 電子メールによる方法

二 磁気ディスク、CD-ROM等を交付する方法

2 定款第41条第2項の電磁的記録は、次に掲げるものに記録する方法をいう。

一 電子計算機に備えられたファイル

二 磁気ディスク、CD-ROM等

3 前2項に規定するもののほか電磁的方法又は電磁的記録の利用に関する細目は、理事会が定める。

(組合員でないものの権利の放棄に伴う損失保証金)

第65条 この土地改良区は、土地改良事業の開始手続き後に設定された権利について土地改良法第61条第3項の規定による損失の補償を行なった場合には、当該土地(地役権者の場合にあっては当該承役地)に関して組合員である者に対して、当該補償額の金額を求償することができる。

(補償)

第66条 土地改良法第118条第5項、第119条、第120条及び第122条第1項の規定による補償金の額は、被害者より損害見積額を提出させ、これに基づいて理事会が評価委員会に諮問して定める。

(施設破損等の報告)

第67条 組合員は、工作物その他の施設について破損その他修繕を要する箇所があることを発見したときは、速やかに土地改良区に報告しなければならない。

(農地転用等に伴う処理)

第68条 この土地改良区の地域内農地等が転用される場合において、農地法施行規則第30条第6項又は第57条の2第2項第3号の規定による意見は、転用団地の面積が3ha未満にあっては理事長、3ha以上15ha未満にあっては理事会、15ha以上にあっては総代会で決する。

2 前項に定めるほか、この土地改良区の地域内農地の転用等に伴う地区除外及び権利業務の決済等に関する規程は、理事会で定め総代会の承認を受けなければならない。

附則

1. この規約は昭和41年11月10日から施行し、昭和27年3月28日制定の規定は之を廃止する。

[略]

10. この規約は令和2年4月1日から施行する。

令和3年度財務状況等報告書


一渠功徳潤万世

三森治右衛門の功徳を偲んで

 先人の足跡

 夏井地区の山添に愛谷江が流れている。記録によると今から3百有余年前の延宝年間に三森治右衛門が平藩主の命を受け約6年の歳月をかけ、凡そ18粁に及ぶ潅漑用水路を造成したという。

 この先人の足跡を偲ぶため、好間の愛谷から沼之内まで江筋を辿ってみた。

 取水地の夏井川の堤防に立つと堰の上は川幅が広く、まさに貯水池そのものであった。早速取水口の洞窟地点を確かめ水路に沿って歩き始め、東川中子の好間川の樋渡し(現在はサイフォン)そして九品寺のガード下からヨーカドー脇の暗渠(ここから月見町までの道路の下を流れている)、月見町に抜け、平からの県道沿いに歩き北白土古川の樋渡し(古川橋から約50〜60メートル程上、昔は「慶筒の橋」と言った)ここも現在はサイフォンとなっているを経て専称寺の山添を回り山崎の山沿いを伝って如来寺・大國魂神社前、そして腰巻で左折して、東福院の裏手から上大越の学校前を通り、下大越、そして藤間、下高久、八幡から沼之内へと訪ねた。

 江筋沿いの道すがら、取水地の堰の構築、洞窟を、樋を、堰止を、そして用水堀に取り入れる水口等々、それらの工夫、掘削の苦労、更には測量技術、土地の高低は提灯の明かりの利用とか、夜の仕事であったろうと思うし、山添いに水路をとったのは取水の便を図るためであろう等、治右衛門の3百年前の卓越した技術と創意工夫、努力の様子を想像してみて改めてその偉大さを偲ぶことが出来た。

 現在は、愛谷土地改良区の管理の下、改良に改良を重ねられ近代的な水路となっていて、治右衛門の労苦は昔の語り草となってしまっているが、その恩恵は脈々と江筋の流れに、夏の青田に、秋の黄金の波に生き続けている。

 この恩恵に感謝の誠を捧げ、その徳を後世に伝えるため「三森治右門光豊命」として、夏井山崎の地に「水守神社」を創建して祀られ、近隣農民・地区民の信仰厚く、祭礼の幟には『一渠功徳潤万世』と大書されている。まさに治右衛門の悠久の功徳を物語っている。

 以上は、いわき民報の「くらしの随筆」に投稿したものを一部加筆したものであるが、郷土開発の功労者に対する畏敬の念と、夏井出身者に郷土の古き思い出を持ち続けて欲しいという思いから綴ったものである。

 残念ながら、治右衛門の生い立ちや業績について詳しい確かな記録が無く「いわき郷土史」等を参考に想像を巡らせて書いたものである。

1.治右衛門の生い立ちと晩年

 伝承によると、三森の先祖は三森光高で、室町時代の文明11年(1479)当時から代々鎌田郷に住んでいたという。祖父光隆は藩の家老内藤治部左術門に夏井川を堰止めて灌漑する工事目論見書なるものを献上したと言われているので土木技術の識見を持っていたのであろうと思われる。

 そのような家系に治右衛門は、寛永13年(1636)4月7日に生まれ、弱冠16歳にして内藤忠興に仕出し、渾村勘兵衛が小川江筋着工の承応元年(1652)の頃は17歳で三森内匠と称していたという。

 治右衛門が治水事業に関わりを持つようになったのは祖父光隆の影響であったものと思われる。

 こうした治右衛門は、延宝2年(1674)3月、藩主内藤公の命を受け愛谷江筋の開鑿に着手したのは39歳であったという。

 治右衛門の歿年は元禄7年(1694)11月17日であるので享年58歳であった。その墓碑は平字鎌田町の二十三夜堂延命地蔵尊の境内に『白鴎居士』と記されて建立されている。

2.当時の藩政の概要

 当時の藩の政治について、いわき史誌よりその概要を抜粋してみた。鳥居候が山形移封後、元和8年(1622)9月25日、内藤政長が上総国(今の千葉県)天羽郡佐貫4万5千石から磐城平へ7万石で転封し、楢葉郡・磐城郡・磐崎郡・菊田郡の4郡を所領した。政長の嫡子忠長(忠興)は、やはり磐城郡・磐崎郡・菊田郡内の2万石、内藤氏の姻戚土方堆垂が菊田郡の一部に転封したため、いわき地方は大小三領主に分割領有された。当時の領内は楢葉郡34ケ村で16,878石余、磐城郡内は47ケ村で22,656石、磐崎郡が74ケ村で29,005石余、菊田郡は3ケ村で1,460石余の計158ケ村7万石余となるが実収は8万石を超えていたという。政長は元和8年転封してから寛永11年(1634)10月までの13年間で子忠興に譲り、忠興は所領2万石を弟政晴に与えて泉藩を成立させ、明暦3年(1657)5月に知行制から禄米高に改革された。

※ 知行制

 家臣が領主より与えられた1ケ村もしくは数ケ村を支配し年貢や労役を徴収する制度。夏井地区の例をみると、元和9年(1623)頃、加藤喜左衛門が200石で荒田目村・赤井村・水野谷村を持っていたという。寛永15年(1638)(戊寅年)には「寅の縄」と称される全領地内の総検地を行った。この検地は10年間もかかって行われたという。当時の耕地面積を山崎村でみると、上田1町9反余、中田3町6反余、下田9反余、下々田2町で計8町4反6畝7歩とある。畑も上・中・下・下々に評価されている。当時の山崎村の農家戸数は61戸と記されている。

 このように、年貢の徴収の増加を図るために綿密な調査をすると共に新田の開墾も奬められた。更に忠興は年貢の徴収について代官が百姓をかばって未進を認めていることは不当である、従って百姓は身売りを出す程であった。又、未進を認めると代官を厳しく戒めたり、農業の仕方が悪いとまで申し渡していたという。

 当時の記録には、

① 寛永16年(1639)8月に、上平窪の女房が未進のために身売りをしたが、人身売買は法度のため奉公とした。

② 寛永18年12月には、未進は思いの外あるので、未進の者を水牢に入れて催促している。

③ 寛永19年5月に、当年は百姓生活が詰まっている、苗腐れのため収穫が減り、御城米を少々ずつ貸しているが領内には飼窮者が多い、しかし身売り人はいない。

④ 寛永19年には、今年は大変な年で、百姓共は、くず・わらびを掘り山小屋を掛けている程である。

⑤ 正保3年(1646)12月には、今年は人を売ることを禁じた、この上身売りが出れば田畑が荒れるからである。

⑥ 明暦2年(1656)12月、隠し田の年貢を徴収し、もし不足の場合は妻子共身売りさせても納入させる。等々である。

 当時の年貢の徴収が如何に厳しかったかを物語っている。

 この外、代官の年間農事巡回が行われた、例えば。1月中に田畑を荒らしているかを調べ、荒れていると耕作主に注意をする。種籾はその年の必要量を調べて貸し渡し、種の萌出しと引上げ苗代には念を入れる。耕作は早くし、もし差し支える者は5人組、或いは村の者に助力させる。麦は刈り取り前に作柄の上・中・下を村ごとに書き上げ郡奉行へ届ける。畑の仕付けも良く手入れし、除草を良く行う。といったように、月毎に百姓の指導監督をして年貢の増収を図っていた。当時の年貢の例を挙げると、上高久村の田は6ツ8分つまり収穫量の6割8分が年貢として徴収されていた、このように6割から8割以上の年貢が課せられていた、しかも年貢は定免(毎年同じ)であった。百姓が身売りをしたり、口減らし、夜逃げ、潰れの出るのも当然であったと領ける。こうした状況の中、百姓達は年貢の減免の訴訟も度々起こし重罰に処せられた例も多い。このような年貢は、藩内の諸経費と江戸藩邸の費用となるが、例を万治元年(1660)にとると、江戸米の内訳は奥様分1,600俵(1俵は3斗2升入り)、家中貸米2,400俵、大蔵・小蔵賄い用13,500俵、計17,500俵、御中屋敷分7,900俵、御米掛物入1,000俵で計8,900俵、総計26,400俵、約3万俵となる。これ等の米は全て農民よりの年貢で賄うということになり、厳しい徴収をしなければ藩財政の困窮を招くことになるのは必至であった。また、寛文10年(1670)には、枡の容量を横5寸2分四方、深さ2寸6分を横4寸9分四方、深さ2寸7分に改める等をしたという記録もある。

3.新田開墾と潅漑用水路の開鑿

(1)新田開発の概要

 前述のような藩政であったので、当然米の増収を図るための開墾が進められ、鳥居氏時代から家臣に開墾を命じて「新切り」と称して武士の資格を与えて開墾を強力に進められた。内藤家においては、寛文度に2万石の新田をもって湯長谷藩を成立させる程であった。

 その頃の新田開発を概観すると、寛永15年(1638)には1,053町8反、延宝8年(1680)が2,021町9反、元録8年(1695)には369町7反という開墾面積である。

 この開墾面積を延宝年間の郡別でみると、楢葉郡87町1反、磐城郡521町3反、磐崎郡593町1反で、楢葉郡は、特に富岡地方を中心に開墾された、それには新切りと称して足軽が多数開墾に従事したといわれている。

 残念ながら夏井地区の様子についての記録は無いが、当時磐崎郡に属していた高久村の開墾は、寛永15年182町4反9畝余、延宝8年には235町7反6畝余、元禄8年が11町9反余となっている。

 このように開墾が進められ、とりわけ延宝8年には寛永15年の約倍の開墾が行われたことになる。こうした命懸けともいえる当時の農民の苦労があってこそ、今の耕土が、と思うとその労苦に改めて感謝したい。

(2)潅漑用水の開鑿

1.小川江筋の開鑿

 前述のように開墾しても用水が無ければ作付けは出来ないので、開墾と用水に注意し、江堰の普請をおこなっている。慶安2年(1649)の覚書によると、村々の江堰堤は、いずれも春普請は前々よりのように堰扶持をする。新切りは油断無く開墾し大谷・筒木原・福岡の三ケ所は「新田台帳」に登録するようにする。住吉村は春中に縄を入れ、用水し、また普請を行う等の新田開墾と堰水について注意している。こうして開墾が進むにつれて用水路の開鑿も各地で行われていったものと思う。

 小川江筋の開鑿は澤村勘兵衛の手によって進められたが、勘兵衛は渾村仲の二男で、仲は政長に仕えていた。嫡子甚吾左衛門重勝は政長が平に入部すると町奉行となりその後郡奉行となった。勘兵衛は直勝といい、寛永18年(1641)9月5日郡奉行に就任している。

 「小川江筋由著」によると、慶安3年(1649)は大早魅で水不足を来した、内藤氏から田畑の調査を命じられた郡奉行澤村は村を回り、その結果、小川より堰上げして潅漑用水を取り入れることを計画し、知行500石の内300石をもってこの費用に充てることにした。

 この計画は、小川(関場村)地点の夏井川から堰上げ、平窪、中塩、四波、鯨岡、鎌田の顕蔵淵を通り、上神谷へ上らせ、下神谷山岸から下片寄へ上り、泉崎、馬目、絹谷、大森、名木、長友を通り戸田川へ落とし、仁井田、四倉まで江筋を通す6里8町(約25粁)に及ぶものである。この計画には光明寺僧歓順の協力を得たという。

※ 由著に「慶安4年2月15日を吉日と定め、関場より掘は初め所々水門を立て、平久保迄掘来り、同所横山と申す場所は大川の水先き故に土堤何れにも持たず、成就致し難く、己に切腹にも及ぶべき処、其夜自らの守本尊大日如来の霊夢を蒙り、岩を切り通して成就致すべき由の告を得て夢覚めたり、さて有難き哉と礼拝を成し、則ち翌日より彼横山の岩に掘り初まりし処、彼地蛇大いに涌き立ち、人民恐を成して掘ること能はず、依って勝為公思慮ありて、此地に彼蛇塚を築き、其場へ一宇を建立、大日如来を勧請して利安寺と号す。而して僧を招き除地五石寄附致され、経行読誦の功徳によって、此所も難なく掘り通し終わりぬ。さて人足は郡中一統昼夜共相働かしめ、一日何百人と究め、朝五つ時の替わりにて入精して働かざる者は縄目或いは死罪等と色々罪科を得さしめ、都合年凡そ初めより三年三ケ月に四倉迄成就し終りぬ。とあり、その後寛文4年(1664)に鎌田顕蔵主淵より上神谷の間と鯨岡より大室山を掘り、大森の名木まで開鑿したという。勘兵衛は明暦元年(1655)7月14日大館西覚寺で切腹、法号「一声院刀誉利道居士」享年43歳であった。

 ※以上のように、由著によると慶安4年(1651)開鑿の始まりしと伝承されているが、内藤家の文書の公開と長福寺文書の発見によって、前記由著の外、諸説が出て釆た。その1つは、江筋の開鑿は既に寛永10年(1633)3月に始まり、慶安2年(1649)澤村が罷免され、その着工は承応元年(1652)2月とされるに至った。

 次いで寛永2年(1625)の文書には今度平窪へ新掘をとおすことになった。次が慶安5年9月18日に四倉組の内、長友・戸田・塩木・狐塚・細谷に新川を掘らせる。

 以上が藩文書の江筋関係部分の一部であるが、「小川江筋は寛永10年に下小川から着工し、寛文年間までかかっていると思われる、開墾と江筋掘りと拡幅といった江筋掘りの跡をみるようである。しかし、多くの文書は3年間を要している完成したとある。その時期の慶安4年は承応元年に相当し、それより3年後の明暦元年7月14日に切腹していることになる」。

 慶安3年に藩は忠興に勘兵衛の処置と新奉行の任命を迫っている。

その原因は、

① 家中の訴人、訴人は定かでないが勘兵衛を取り巻く内輪もめか。

② 除地の縄ゆるめ、「少之所二而ものぞき無用」という検地の方針に反した除地の縄緩め。

③ 農民人足の処罰、人足への死罪、重罰を与えたこと等であると言われている。

2.愛谷江筋の開鑿

 三森治右衛門が内藤公の命を受けて、愛谷江筋の開鑿に着手したのは、延宝2年(1674)3月というから、今から328年前のことであり、治右衛門39歳の若さであった。

 小川江筋由著に「夫より暫く年積もりて(勘兵衛歿後)鎌田顕蔵主淵より上神谷の間地面甚だ高下有りて用水不順故に水守(三森)治右衛門と申す者有り見聞、其時鯨岡より大室山を掘り通す。又大森も左の通り月田寺前より邑岸を通す処に是も地面高下有り、名木の通行悪しきに依り、此時に掘通し、山用水の便り甚宜敷也、この時寛文四年辰歳四月拙僧存生の内に右ニケ所掘り替る故に是を書記する也。」

 治右衛門はこの記録でもみられるように、小川江筋の工事にも関わっていた、この普請について3両2分の下賜をうけているという。

 このような経験を重ねた治右衛門が愛谷江筋の開鑿に取り掛かったのは、前述もしたが、延宝2年(1674)であるので、澤村勘兵衛歿後13年ということになる。しかし、残念ながら工事そのものに関する詳細な記録は残されていないので、伝承をいわき史誌等により概略まとめてみた。

 愛谷江筋は、夏井川の元愛谷村に堰上げし、宝暦年間(1751〜1764)の頃の村々でいうと、幕領小名浜管轄の荒田目・上大越・下大越・藤間・下高久・磐城平藩下の町分・十五町目・谷川瀬・北白土・菅波・山崎・沼之内・川中子の諸村の水田を潤す、約4里余(約18粁)の江筋である。

 三森治右衛門公の功徳を称えた記念碑が建立されている。

 水守神社の記念碑文は、副島種臣伯の篆額大須賀次郎、選文金井恭によるもので、その碑は岩崎村藤原産の黒花崗岩で、厚さ約7寸、幅3尺5寸、長さ6尺3寸の右に刻まれている。

 愛谷渠碑     従二位勲一等伯爵副島種臣篆額

 磐城岩崎二郡瀕海之水利天少旱田皆亀折内藤候臣澤村勝為建分夏井川灌漑二郡之策承應中先鑿小川渠以灌磐城郡工僅竣而自死千讒水守君治右エ門内藤家微臣者也慨勝為之業不遂憤然蹶起以身自任寛文之初改修小川渠鑿大室・大森二洞延寳中新決此渠以灌磐前郡渠起於 谷堰夏井川長七十六間洞巌脚容水水勢奔放東南至川中子好間川劃前乃架槽長百七十尺繞出平街束東支流貫街西灌長橋幹流架槽古川環専稱寺麓漑山崎菅波荒田目上大越下大越藤間南下下高久架槽荒川導餘流灌沼内紆餘曲直長四里五町有餘閘門大小十四陰槻百九十八灌田五百十町餘歩於是二郡之水利始浹而澤村氏之遺志全成稱日上下渠地勢之精測流導周到後世無以加也初限歳時修閘槻規約頗巌而年久敗壊明治十九年改築捷掲益見其便若夫魃鬼逞毒驕陽拊地之時疎決縦横水田浸空渠下人民謳歌秩緑稲香之間不復知雲祭為何事是豈非君之遺澤哉古者有功於民者廟食千秋澤村氏既有神祠而君大成之功将終蓼無聞非盛世所宣況蒙之遺澤者可無所報効乎因請文於余建石表功

 明治二十七年十月      磐城       士 大須賀次郎撰

  ※横面に菊多郡山王出石 石刻者 開田村 小野鉄吉 とある。

○ 福島県農地開発史料(水利組合施行当の水利施設沿革調査)に、「石城郡愛谷堰ノ沿革並旧慣ノ大略」として、『古記二日ク福島県磐前郡愛谷疎水ノ開鑿ハ明暦元年(1655)2月平城主内藤左京亮義稠藩政ノ際其臣澤村勘兵勝為深ク本郡水利ノ乏シキヲ歡シ疎水ノ開鑿ヲ計画セント雖モ事業末夕成ラサルニ当タリ故アリ屠腹ノ命アリ(今磐城郡草野村大字下神谷二澤村神社卜称シ崇祭ス)当時水守治右衛門(澤村勝為卜志ヲ同ウスル者)其業ヲ継キ累年精励終二其功ヲ奏セリ而シテ本渠ハ明暦元年2月業ヲ起シ同シキ3年2月功ヲ竣フ於是渠下始メテ灌漑二富ミ永ラク福利ヲ得ルニ至レリ今尚其徳沢ヨリ追慕シテ止マスト云フ而シテ該渠ハ同郡好間大字愛谷地内夏井川二堰シ水門ヲ設ケ水路ヲ発キタルモノニシテ同郡平町夏井及ヒ高久村ヲ経テ海二朝ス水路4里5町24間4尺ナリ渠中掛樋4(長14間9分ヨリ長28間4分二至ル高サ3尺ヨリ幅1丈2尺二至ル)埋樋197水閘15(大小)ケ所ヲ抱有シ藩政ノ当時管理スルニ堰守江筋割頭樋番水番等ヲ以テシ給スルニ堰守土石6右江筋割頭籾3右6斗樋番籾1石5斗水番籾2石ヲ以テ年給トシ官給セリト仰モ本渠ノ修費クルヤ開鑿ヨリ凡ソ234年間藩費ヲ以テ支弁シ来リシモ降テ廃藩置県トナリ費用挙ケテ民費ノ負担スル所トナリ関係村民ノカ能堪エル所ニアラサルニ至レリ於是堰堤及ヒ渠中ノ樋管暫次破壊ヲ来セシニ因り関係村民相計り堰守(1人)取締(2人)樋番(4人)水番(4人)ヲ設ケ堰守1人年給15円取締1人同21円50銭、樋番1人同7円、水番1人同5円ヲ支給シ専ラ水配ニ従事セシムル歳アリ明治17年区町村会法ヲ改正セラレ部長ノ管理ニ属シタルヲ以テ区域ヲ指定シ議員ヲ撰出シ、明治18年水利土功会ヲ開設シ土木費ノ収支方法ヲ議定シ爾来修繕ヲ怠タラサリシ、明治21年町村制ヲ発布セラレルト雖モ本会ハ法律第11号ニ依り今尚存続セルモノナリ。』

 当時の区域は、平町=810戸、82町5011。飯野村大字谷川瀬・南白土・北白土=134戸、118町7325。夏井村大字菅波・山崎・下大越・荒田目・上大越・藤間=325戸、225町3201。高久村大字下高久=150戸、29町0305。豊間村大字沼之内=15戸、2町0912。となっている。

 このように、江筋の管理については殊の外大変であり、江戸時代に於いては藩が直接管理し廃藩置県後は部長の管轄、そして関係村民代表による組織をつくり、その管理に当たってきているようである、こうした管理面に目を向けて、いわき史誌よりその概略を拾ってみたいと思う。

3.愛谷江筋の維持管理等の概略

 江筋沿えの村々には、各々筒・水門・箱筒・埋樋・大掛樋・樋等の施設があり、この総数は127ケ所に及び、内訳をみると水門14ケ所、枠33挺、大掛樋4ケ所、箱筒15ケ所、打筒55ケ所、埋筒3ケ所、樋蔵1ケ所等である。この外二町目・五町目に水門2ケ所あり、二町目は遠藤庄兵衛、五町目は富右衛門の個人普請であったという。

 この江筋に、宝暦年間の頃には4つの丁場を置き、磐城平藩領愛谷村は治左衛門、町分は物右衛門。飯塚伊兵衛代官所は六兵衛、風祭甚三郎代官所は庄左衛門であった。

 各丁場の限界は(愛谷堰水番)次のようであった。

一.愛谷村堰元より九品寺後落合迄 平領愛谷村水番 治左衛門丁場

一.九品寺後落合より慶筒迄    同町分村水番  物右エ門丁場

一.慶筒より下大越村白山下迄   飯塚伊兵衛御代官所

                 荒田目村水番  六兵衛丁場

一.白山より沼之内諏訪原迄    風祭甚三郎殿御代官所

                 下高久村水番  庄左衛門丁場

 以上の丁場は水番の責任者とみられ、江割頭を置いて水番・樋番も決められていた。

 当時の江割頭は給籾5俵で帯刀御免であったという。又水番には配籾1俵から5俵まで支給されていた。その例をあげると次のようである。

一.給籾五俵帯刀御免 北白土村江頭割頑格 加藤惣次右衛門(中平落合迄)

一.給籾 五俵    愛谷村水番     直 右 衛 門

一. 同 二俵    川中子村樋番    甚  太  郎(慶筒迄)

一. 同 五俵    町分村水番     彦  四  郎

一. 同 五俵    南白土村樋番    源 右 エ 門

           荒田目村水番    小 右 エ 門(白山下迄)

           下高久村水番    源 次 右 エ 門

※ 普請について

 普請は水番が、磐城平藩と幕領小名浜代官へ願い出て、年番立ち会いで大工を連れて木割をする。材料は、杭木・細木・竹・縄・藁・古俵・すぐり藁・塊松葉・松明等で、杭の長さ6尺(約180センチ)回り8寸(約24センチ)とし、松葉は3尺(約90センチ)結縄とした。

 普請について二、三の例を上げると、「御領所村普請平領は上より入用下され、その外の入用は高割を以て江組より差し出すこと」と取り決めをしている。

 江筋の見分は10月、11月頃江組村々相談の上、見分の日限を定め、堰元より磐城平領分役人両人、江割1人、大工1人、村切りに村役人・開場切水番とする。

 幕領小名浜支配村々では、江水のかかる村々が組合して普請する。目論見仕立の請人用は、年内より心掛け早春より普請に取り掛かる。当時菅波村瀬蔵という者が江筋掛となり世話をしていた。

 江筋の取り扱いについては定杭と称して、江敷に100間(約180メートル)1本ずっ打ってあり、下大越白山前、北白土八幡前にも1本ずつ打ってあったというが、宝暦年間の頃には既になかったという。

 その他特殊なものを上げると、筒は江敷より6寸上りに据えるが、八幡前には4寸下りに据えたものがあった、(文化4年据置)。又、悪水底筒は下高久牛転にあって、長6間1尺四方のものを天明9年に入れている。その他江筋にごみが溜まると人足を出して取り除いたという、「用水仕掛後南白土村慶筒土俵にて重ね候に付、上川原よりちり等流れ懸り候へば、樋の不為に付、同村より人足差出し、昼夜に不限ごみはづし、樋緊せ申候」という記録がある。

 このように、水の管理には水番と百姓が協力して行われ、文治11年(1828)には江筋巡回のために安藤家の家紋「上り藤」の弓張提灯も許されたという。

 更に、堰の増設、洪水普請などについて、次のような記録がある。

 前述のように水の管理には色々と苦心を重ねているが、取水口の渇水での早魅、洪水による堰や樋、土手等の欠潰し大普請となることも多かった。

 文化9年(1812)1月に江堰の増設について、次のような協議をしている。川中子の内に大掛かりの樋1ケ所を新設する。慶筒までの処の土手を凡そ1尺ほど築立て江幅を広くするが、水かかりは充分と思われる。難儀をかける場合は直し、相談したい。人足は五つ時に場所に出勤し、延着の者は半役とし、後にまた勤めることとする。という協議を上流村々と下流の村々でしている。

 次に、洪水普請についてみると、文化8年(1811)7月大雨で土手が決壊し、人足1000人と助人足を以て修理工事をした。

 又同14年7月雷雨でも大破した、この時は堰築立てもよくないので、新たに江掘りをして永久の堰をつくりたい、この金高60万両かかる。大工・仕事師・人足など一切を小泉村小野某に請け負わすので磐城平より借用して年賦で返金したいと願い出ていることが、次の記録で分かる。「愛谷払水門より下二十間余急水にて文化八未七月中、土手切、翌春中江組を以て築立て当御領分の儀、南北より千人、助人足被仰付候、右土手同十四年丑七月雷雨急水にて押切り大破に付、迚も築立候ても場所柄不宜候間、永成就の為め無覚束候間、水方脇より南江百三十間程新江仕り候ハハ水成就可仕候間被仰付度江組より願書差出し候処再又古江の処堅普請仕り、其上持善候はば其節は可任願一決いたし仕事師受合之普請に申付候、金高六拾両也諸人用、大工迄上より仕出、仕事師、人足の万一辺受合小泉村小野善兵衛江申付候右に付合金子の処平領は上より拝借被仰付候て年賦に被仰付、塊切人足北南より助寄金被仰付候新江入札洞掘抜より新江堀割迄一遍渡金一拾両余に相積申候。」

 この願い出の結果、永久堰が出来たかどうかは明確でないという。

 更に、文政7年(1824)8月には洪水のために水門が流され、土手も切られ、その上川形も変わり流れが悪くなったので、堰口より南に新堀をしたい。しかし愛谷村では反対したので下流で地代金として45両を出すことにした。洞長28間を掘り抜きのところ109間となり村人足で掘り抜くこととし、この請負は白鳥村の者に49両で行わせている。

 当時の記録をみると、次のようになっている。

 「文化七申八月十五日大洪水の処、追々引水に至り、水門押流され、廿二日迄に先年土手切の通り押切大破に相成候、然る処、川形至て悪敷罷成り候に付又々土手築立申候ても迚も成就仕間敷、村々一統願書を以て先年、土手切の節相願の通、開口より南の方洞掘抜、新江筋相願候、願付、愛谷村不得心の処、得と和解申聞、為地代金四拾五両村方江下より差遣、洞長廿八間掘抜新江の処、長百九間村下人足を以て為掘申候、掘抜請負白鳥村五郎右エ門に金四拾九両にて申付酉三月四日より普請取掛申候、土手代共幅六間に有之候、右新江筋間敷村割にして掘。

 以上のように洪水等による被害は大きく、前記のように新堀をしていたようである、これ等の工事は村の負担で行ったというから、その負担金は拝借金で賄ったようであり、被害の出る度関係村々が協議し工事をすすめてきたようである。その心労は並大抵では無かったろうと推察出来る。

※参考1 風雨・洪水・大波災害

 寛文11年(1671)〜延宝8年(1680)までの災害の記録が次のように記録されている。

○寛文11年8月24日、昼夜大雨風、白土手崩れ、侍町屋敷、舟破損。

○ 同   8月27日、白土手15ケ所崩れ、侍町村家10戸倒壊、

                田畑7000石、村家206戸浸水、塩釜、舟、溺死5人。

○ 同    10月23日、白土手10ケ所崩れ、麦作2000石、村家49戸損壊、舟。

○ 同 12年 5月 9日、白土手20ケ所損壊。

○延宝  2年 8月 6日、大風雨城下町12戸、村605戸損壊、死者2人、馬3、舟9、塩釜18、

                堤・橋9、田畑1万460石水入。

○ 同 5年10月 9日、浜家330戸流失、稲大分流れ、塩釜家破損、舟97、男女死亡75人、

                怪我人多数、牛馬30死(小名浜、永崎、中之作、薄磯、四倉、江之網)

○ 同 8年 8月14日、洪水、民家破損、城下水浸民家211戸、白土手19ケ所、海辺高波船流失14、

                溺死35人、馬1、堤防1237ケ所、(6220間)堤27ケ所、橋136ケ所、

                田畑3万200石水入り。

 これは、磐城御料内の被害の覚書であるが、この状況から推察すれば、田畑、建物、人畜、河川施設、海産関係の被害は甚大なものであったろうと思われる。

※参考2 江浚人足割(宝暦年間=1751〜1764)

 ○北白土村=39人、○荒田目村=23人、○町  分=28人

 ○十五町目=32人、○谷川瀬村=21人、○南白土村=21人、

 ○菅 波 村=31人、 ○山 崎 村=11人、○上大越村=12人、

 ○下大越村=34人、○藤 間 村=19人、○下高久村=70人

 愛谷江筋灌漑用水の水掛け高から、このような人足割当をして、普請をしたものであろうと思われる。

◎ 神社前記念碑にみる改修の跡

 我が愛谷堰は、昭和八年懸費二十三万余円を以て改造され、郡下三大堰の一として、管下六百余町歩の耕地を灌漑し居たが、昭和八・九年の夏井川改修により、両岸に大堤防が出来、流水が自然統一増強される様になった為、堰は河中に取り残された形となり、一朝洪水があれば必ず惨害を蒙るので、その改造方を二度までも懸に請願したが、懸費多端のため目的を達し得なかった。

 果たせるかな、昭和十一年及び十三年の出水にも害を受けたが、同十六年の洪水には、全堰大破して遂に通水不能となってしまった。依て即時関係民の總力を集め、晝夜兼行、復舊工事を進めた結果、ようやく通水には成功したが、その量が少なく、到底需要を満たすに足らないので、下流山崎及び下高久地内に電力揚水場を設けて之を補い、一面用水の配分を合理化して、食糧の増産と経済の安定とに支障なからしめた。然しそのまま止むべきではないので、管理者及び関係者協議の上出懸し、災害報告と共に改造工事の懸営を要請した所、幸いに容れられ、昭和十八年起工の運びとなったので、関係民も起って作業に協力し、工事の進歩を計ったが時恰も大戦に際し、資材の缺乏甚しく、工事はややもすれば停頓する状況となった。爰に於いて、関係民の要望は、再び工事費増額の請願となったが、懸も亦事業の重大性に鑑み、時局財政難の中から、工費千五百万円を捻出し、新設計によって直営することとなり、福島市高橋工業会社これを請負い、工事の継続四ケ年昭和廿二年五月、めでたく竣工を見るに至った。その後昭和廿四年には、工費二百八十万円を以て、好間村川中子地内のサイフォンを開渠に改造し、同廿五年には百七十六万円にて平地内岡之内慶筒の改造を完成した。

 以上各種施設の實施は、愛谷用水取入口の完備と相俟って、今や管下灌漑の要を満し、本組合使命の着々実現せられつつあることは、誠に同慶の至りである。依って爰に一期を劃し、数十年の輝かしい歴史ある本組合を、法に従って「愛谷堰土地改良区」に改組することになり、組合会の決議により、碑を建てて記念とする次第である。

昭和二十七年四月二十八日   愛谷堰普通水利組合

従四位勲四等 瀬谷 真吉 篆額 撰文 並書

濃 魂

篆額 福島県知事 木村 守江

撰文 いわき農地事務所長 風間 真

 愛谷江筋は、今より三百二年前の延宝二年三森治右衛門によって開鑿に着手され、五年の歳月を費やして完成されたと伝えられている。

 爾来当地域の沃野を潤して、今日まで農業用水の動脈的な役割を果たして来たものである。しかし開鑿当時は原始的な素掘水路のため、昭和の今日まで幾多の先覚者の努力による絶えざる改善改修が行われて水利施設が維持されてきたものであるが、年々老朽化が甚だしくなり、水路も護岸も常に崩壊を繰返し、灌漑用水の不足も慢性化していた。

 この状態を抜本的に解消するために、水路の三面舗装工事が、県営夏井川灌漑排水事業として昭和十三年に着工され、十三年の歳月と二億四千百五万四千三百三十一円の工費が投じられて、延長一万三千五十八・〇七米の舗装水路が完成されたのである。昭和四十五年からは、引き続いて団体営事業により、二千五百十二・三米の水路舗装工事が行われ、四千五百二十四万八千円を投じて昭和四十七年に完成され、ここに愛谷江筋は全線が三面舗装水路となったのである。

 昭和四十六年この地方を襲った台風二十五号がもたらした稀有の大洪水によって愛谷頭首工は決定的に損壊され、全く取水不能となった。そのために昭和四十七年二月県営災害復旧事業として、頭首工の画期的な復旧工事が行われたのである。この愛谷頭首工は現代技術の粋を集めた自動可動堰であって、昭和四十八年十月、三億七千六百八十万円の巨費を投じて完成された県下屈指の名取水堰である。

 これら諸工事は、官民一致協力による素晴らしい成果であり、この偉業を永く後世に伝えるため、ここに有志の発起により全組合員の賛同を得て記念碑を建立するものである。

昭和五十一年五月七日

愛谷堰土地改良区理事長 藁谷 久太郎

       会計主任 鈴木 正道 書

4 水守神社(神社誌より)

鎮座地 いわき市平山崎字辰ノロ12の1

祭 神 三森治右衛門光豊命(みもりじんえもん、みつとよのみこと)

例 祭 5月17日

由 緒

 神社創建は、昭和26年3月15日(宗教法人令による届出に依る)全面改築による神殿輪奐創成は、昭和30年5月17日。社名は水守神社と称するが、祭神は三森治右衛門光豊命である。即ちその姓は三森で社名の水守と甚だ語呂が合うことは洵に奇しき因縁と申すほかはない。水守の語意は古来神代のむかしより「天之水分神(みくまりのかみ)」というなど深遠なる神観概念の伝統を引くものと云えよう。実に灌漑面積510余町歩の水を守り育て給いし有り難く忝き生き神で有り給えた。

 命は平藩主内藤公の微臣なりしが、沢村勝為公を助けて共に小川江を穿った人である。いま、しばらくその実績を尋ねれば次の如くである。

 命は寛永13年(1636年)4月7日、平鎌田なる工匠光隆の子として生まれる。16歳にして時の平藩主内藤忠興公(内藤氏五代、平藩主二代)に出仕し、三森内匠と称し、沢村勝為の下にあって小川江開削工事に従事したが、主勝為故あって藩公より死を賜り、自刃して果つるや(明暦元年7月14日)命、慨然として奮起し身を以て之れに任じ、大室、大森の二洞を穿つ。

 かくのごとき貴重なる経験を以て藩命(六代義慨公)を受けた命は、延宝2年(1674年)3月、39歳の男盛りで工を愛谷に起し、夏井川に堰し、愛谷堰の開削に従事する。先ず76間の岩脚を洞して水を容れ、水勢を奔放せしめ東南川中子に走る。好間川に槽(樋)架すること170尺、水めぐりて平町の東に出る。支流は平町の西を貫きて長橋に灌ぐ。幹流は更に東して槽(樋)を古川に架し、専称寺の麓をめぐって山崎・菅波・荒田目・上下大越・藤間を潤おす。下高久に至り槽を荒川に架し、余流を導きて沼之内に注ぐ。この間紆余曲折4里5町余に及ぶ、この間、閘門を設くる大小14、灌田実に510余町歩。小川江と並んで当地方の水利ほぼ全きを得五穀豊穣に導かれた。命の功筆舌のよく及ぶべきものではない。

 逸話に次の事あり。小川江、愛谷江開削に指導的役割を果した光明寺住職観順和尚は殊の外命を信頼したという。蓋し命は人格円満、達識の士たりしことが窺われる。工事延長4里に余り灌田500町歩に余る長さと幅、而かも数年間[延宝7年(1679年) 完成という][大国魂神社【石室記】に『延宝7年春ここまで開削した』との記事がある]に及ぶその間の労苦は並大低ならず人夫を統率する人徳とその技術また卓越せるものあったであろう。元禄7年(1694年)11月17日、58歳を以て世を去られた。天寿を全うせりとは申さざるまでも、主勝為公の如く悲憤の死に遭遇しなかったのはせめてもの慰めであろう。

 測量には、特に夜間は提灯を用いて高低屈曲の度を測った時代であった。その他土砂の掘削運搬、岩石の破砕等その技術・機械器具の能力に於ては現代の何万分の一にも満たぬ時代であった。後世磐城処士大須賀次郎(父は当代一流の儒学者神林復所。子は明治、大正の俳壇に勇名を馳せた大須賀乙字。【磐城史料】その他多数の著あり、また書画を好くした)をして『三森扇の功、後に加ふるなし』と感歎せしめた。

今日のいわき市、もとの十三ケ町村510余町歩は主として命の恩沢を享けて居る。今人は固より子孫永世に亘り命の神恩を仰ぎ謝すべきである。

※『国魂石室記』の発見。大国魂神社の項をみると、次のように載っている。三森治右衛門の愛谷江筋開鑿の折り、国魂神社の裾まで掘り進んで来た時、人夫の鍬先にガチャッと突き当たった石塊がある、それを取り除くとその下に石室があった。それは整った石室で、その内容物についての記録が石室記の一巻である。

 更に、三森治右衛門の事績については現代に於いても沢村勝為以上に不明な点が少なくない。その難工事完成の年月についても種々疑問とされている。然るところこの記の中に「延宝七年春ここまで開さくした」と記録されており、明々白々延宝7年春と定めている。石室記には三森治右衛門の名は出してないが、それは殿様の文章だから無いのであって疑う余地は全く無い。ここに於いて水守神社の項の重要部分を補うことになる。国魂山の裾を巡り菅波・大越・藤間・高久と掘り進むことはこの年の春、夏、秋、冬に及んだであろう。さればこそ三森治右衛門の工事の完成はこの1年一杯と見ることは恐らく妥当であろう。とある。私達はこの事実を真摯に受け止め、命の偉大なる事績に崇敬の念を捧げることが大切てあると思う。


ま と め

 今を遡ること320有余年のこと、明確で詳細な記録も無いが故に、いわき史誌等の資料に目を通しながら、治右衛門の足跡を拾い、閑わりのある部分をまとめて編集したが、詳細な記録は無いとは申せ、諸処方々の記録を見る度に、その専門的識見、殊の外39歳という若さで長い年月を要した工事の指揮監督をして成し遂げたことは、専門的識見・技能・権限のみならず、農民から尊敬される高潔な人格の持ち主であったことが窺い知ることが出来、肖像画に接したことも無いが、その風貌が当時の偉人の肖像画の姿にオーバーラップされて来る。

 当時、まさに封建社会、幕府の絶対的権限は一歩間違いば吾が命を絶つという宿命を背負って事を運ぶ時代であった。

 また、幕府は石高制を設け、「農は納なり」と農民は年貢米の納入対象以外の何物でも無く、「給は替わり侯へども、百姓は替らざるものなり」「百姓は農具さへもち、耕作専らに仕り侯らへば子々孫々まで長久に侯」「年貢さへ済まし侯へば、百姓ほど心易きものはこれなく、よくよく此の趣を心掛け、子々孫々までへ、能く身持をかせぎ申すべきものなり」といった秀吉以来の思潮によって、百姓は働き、そして年貢を納めよという時代であった。

 殊の外、延宝年間の頃は幕府も青も財政が行き詰まり、年貢の増収を余儀なくされた時代で農民の惨菩は言語に絶するものであった。

 そうした藩政を背景にし、藩の命を受け、江筋開鑿に着手した治右衛門の辛苦はいかばかりかと察するに余りあるものがある。

 こうした中、難閑の多い愛谷江筋の開鑿を成功に導いたのは、まさに治右衛門ならではと畏敬の念を深くするものである。灌漑用水の開鑿推進は新田を開発し年貢の増収を図ることがねらいであったことは疑う余地もないが、どのような藩政の下であろうと、このような治右衛門の苦労があったればこそ、爾来今日に至っても尚広漠とした水田を潤し、農民の豊さをもたらしめ、国破れたとは申せ、戦中・戦後の食糧難という難局を乗り切ることも出来、戦後復興を為さしめた根幹が農にあったと言っても過言ではないと思う。

 現今、国際社会の経済競争に於いて、不本意ながら減反政策を余儀なくされているが、先人の築いた農魂は江筋の流れが脈々と続く限り、夏の青田、秋の黄金の波は限り無く続くものと信じて疑わない。『一渠功徳潤万世』は治右衛門の遺徳そのものである。ここに深甚なる恭敬の念を捧げ文を閉じる。

編集後記

 日本の稲づくりは、約6千年前頃に始められ、約2千4百年前の頃から灌漑用水路を伴う水田による稲作が行われたという。

 日本の生活文化は、この稲作(農耕)に起因して発展してきたものと思う。

 この古来よりの稲作をこの地に根付かせ、農の豊さと恵みとを与え下されたのは、「水守神社」の祭神であられる F三森治右衛門光豊命』の然らしむところである。

 祭神の『三森治右衛門光豊命』の「三森」は「水守」に通じ、「水守」の語意は「天之水分神」という深遠なる神観概念の伝統を引く、と水守神社の由著に載せられている。誠に敬遠なる神格の祭神は、三森治右衛門公の江筋開鑿の大偉業の功漬そのものであると思う。

 私がこのような編集を手掛けたのは、何気なく暮らして来た郷土、長年生かされて来た郷土に関わりのある書物を開く度に、深い歴史的出来事・郷土のために身命を賭して生き抜いた人物が数多いることに気付き、郷土の歴史に触れ、改めて見直してみようと思ったことがその動機である。

 今回は、水守神社の祭典を機に、昨今すたれ行かんとする農業の現状を見るにつけ、21世紀当初に生きる私達は、命のこの功績を子々孫々にまで語り継ぐ責務があるのではないかと思い、この拙い編集に取り組んだ、しかし、専門的知識これ無く、充分なる真意を尽くし得ていないが、地域の歴史とその正しい道理を探る発端となり、語らいの資料として頂ければ幸甚と思い編集し献上した次第である。

     平成14年5月17日     (故)馬目 正 書

Kid'sーキッズー

愛谷堰(あいやせき)土地改良区

※こどもたちを対象に説明しています。

なぜ、子供は、勉強しなければならないのでしょうか?

その一つの答えは、自分で一生をかけてやることを見つけるためです。

そして、見つけたやりたいことを成功させるために努力することが必要です。


○土地改良区(とちかいりょうく)って、なんですか。

土地改良区の一番の仕事は、農業生産性の向上のために、農地や農道、用水路を造ったり、維持管理をしていますが、農村環境を保全するために地域ごとに色々な活動をしています。

地域ごとに農家のみんなで組織した団体で都道府県知事が許可します。

現在、いわき市内には、7土地改良区。福島県内には、84土地改良区があります。

普通の会社と違いその目的以外のことが出来ないことになっていますので、営利事業は出来ません。

農地とは、田んぼ、畑、果樹園などの農業生産地。

農道とは、農業生産地を結ぶための道路や農業生産性向上のための道路。

用水路とは、農業生産物(野菜や果物、お米など)に与える水を通す堀で、排水路を合わせると全国の全長は40万キロメートル(地球10周分)です。用水路と河川、排水路の一番の違いは、用水路は、下流に行けば行く程、幅が狭くなることです。


○愛谷堰土地改良区は、どのようなことをしていますか。

・いわき市平北白土、夏井、下高久の340ヘクタールの田んぼに水を引くための農業用水路「愛谷江筋(あいやえすじ)」などの維持管理しています。

・愛谷江筋を子孫に適切な状態で引き継ぐため、地域のみんなで考えたり、掃除したり、美化活動として夏井小学校、高久小学校、藤間中学校や地域の人達と水路敷にアジサイを植え育てる活動をしています。


○愛谷江筋について

愛谷江筋は、今から約350年前の江戸時代に造られました。

平藩主からの命令で、農民が作業にあたり、三森治右衛門(みもりじんえもん)が、延宝2年~7年の6年間で造ったと言い伝えられています。全長は18キロメートルあります。

水路造りで最も大事なことは、上流から下流に水がスムーズに流れること、測量ですが、当時は、今のような機械測量(きかいそくりょう)がありませんでしたので、夜、提灯(ちょうちん)の明かりで高さを測ったそうです。土掘りは、人々が鋤(すき)今のスコップのような道具で行い、天秤(てんびん)で担いで土や石を運んでいた。 

水路の途中には、好間川、古川、新川などの河川があるがそこは、樋(とい)で横断した。


○三森治右衛門光豊について

三森治右衛門光豊(みもりじんえもんみつとよ)は、水守治右衛門(みずもりじんえもん)とも言われるように、愛谷江筋開削に大きな功績を残したとされるが、それを立証するような確かな書物は存在しない。しかし、いわき市平山崎地内に三森治右衛門光豊命の「水守神社」として敬われている。また、治右衛門は、武士ではなかったため当時の封建社会の書物には、登場する機会が少なかったことは推測できる。

もっと教えて・・・三森治右衛門 水守神社


○愛谷江筋が出来て変わったこと

愛谷江筋が出来る前は、田んぼがほとんどなく、荒れ地でしたが、愛谷江筋を造り水を引き、荒れ地を田に開墾(かいこん)することが出来ました。

農民や平藩は、たくさんのお米を収穫することが出来、豊かな暮らしが出来るようになったのです。 

○昔の農作業について

昔は、田んぼの作業は、簡単な道具や牛馬、人により行いました。人手が必要なときは、みんなで協力し、作業にあたりました。

昭和20年代までは、そうしてきたのです。自動車や耕耘機、トラクターなどの機械は、昭和30年代になってから普及したのです。

おじいちゃんやおばあちゃん(70才以上)の人に、聞いてみて下さい。みんなが驚くような苦労をたくさんしていますよ。

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土地改良施設、農用地に生かすグランドカバープランツの研究(H14年度より)

研究の意義

 水路敷や畦畔、圃場又は休耕田等の除草作業は、農家における労働力不足や高齢化の進行により、負担感を増大させている。しかし、害虫やネズミなどの駆除・発生防止及び景観保全の為に疎かには出来ない。

 課題は、維持管理労働力の軽減、経費の節減を図りながら、景観の保全、改善を進めるかである。

 その解決策の一つとして、最も注目されているのが、グランドカバープランツの導入である。

 しかし、農村環境に対するグランドカバープランツは、まだまだ確立されておらず、やっと、現地における試験が始まった段階であり、急速に進む、農村環境悪化に追いつく時期が見えてこないのが現状である。

 このような状況を鑑み、愛谷堰土地改良区の事業の一つとして、グランドカバープランツの研究を実施し、この地方にあった対策を早期に確立し、その普及に努め、もって農家負担の軽減と適切な景観環境の保全に寄与したい。

※ グランドカバープランツ(Grand Cover Plants)とは、「地表面を覆う植物」であり、「地被植物」「下草」とも呼ばれます。欧米などでは昔から広く普及しており、多種多様なグランドカバープランツが、公園、道路、宅地等の景観として使われています。

事業概要(計画)

平成15年度

 現地試験

試験の場所

○ 愛谷頭首工

○ 愛谷用水路敷(数カ所)

日当たりの良い雑草雑木のない適地。

日当たりは良いが雑草雑木が隣接し比較的条件の悪い土地。

試験する植物

○ リュウノヒゲ

○ センチビートグラス「ティフ・ブレア」

○ ヒメイワダレソウ

○ ペニーロイヤルミント

○ クリーピングタイム

 

植物の特性

○リュウノヒゲ{ユリ科(ジャノヒゲ属)日本・中国}

基本特性

 常緑多年草。草丈15cm内外、葉は長さ20cm、幅2~3mmの線形、濃暗緑色で先は湾曲して垂れる。日射が強いところでは葉色がうすくなる。6~7月に淡紫色の小花をつけ、晩秋につく果実は球形で青紫色。根茎には多数の根がつき、ところどころに膨らみがある。わい性種のタマリュウ(草丈5cm、葉の長さ7cm、幅3mm)、従来種で大型のオオバジャノヒゲ(草丈20cm、葉の長さ25cm、幅5~6mm内外)などがある。

 耐寒性、耐暑性、耐潮性が高く、冠水にも強いなど、環境条件に対し高い適応性があり、用途が広い。日本全国で植栽可能である。

増殖法と栽培場の注意点

 株分け(真冬と真夏を除けば年中可)、実生(冬に果実を採取し、とり播する)。

 天端、法面のいずれにも適するが、天端にはわい性種、法面には大型種を植えるなど、区分するとよい。ポット苗をそのまま植え付けると、株が張りにくいため、株をほぐして1芽から2芽に分けて植栽するとよい。または、マット状に栽培しておき、芝張りの要領で植え付ける方法もある。

 生育速度は遅いが、一度土壌面を覆い尽くすと、ほぼ半永久的に地被する。老化による株枯れもなく、畦畔植栽に対する適性は高い。寒冷地の少雪地帯で寒乾風に注意するほかは、殆ど管理を必要としない。

○ センチビートグラス「ティフ・ブレア」{イネ科(シバ属)東南アジア原産}

基本特性

 多年生。草丈10~15cm。普通種よりもほふく茎の伸びが速く、節間も詰まって密な芝生を形成する。耐寒性が強く、マイナス23.5℃の低温まで耐える。永久性に優れ、畦畔などでは定着後10年以上も殆ど草刈を必要としない。

増殖法と栽培場の注意点

 種子の直接播種が可能であるが、種子吹き付け工法や苗の移植で増殖することも多い。その時期は、4~6月が適する。土壌の適応性はpH4.2~8.0で生育する。

 晩秋、気温が急激に下がってくるとアントンシアンが発生し、完全に休眠に入り、春は、ソメイヨシノの花が散り終わった頃から萌芽を始める。

○ ヒメイワダレソウ {クマツツラ科(イワダレソウ属)ペルー原産}

基本特性

 常緑多年草。草丈5cm程度。わい性で被覆進展が速い。7~9月に白い小花がカーペット状に咲き、景観形成植物でもある。

増殖法と栽培場の注意点

 種子を付けないため、茎挿し木したポット苗を植える事が多い。施肥は特に地力が低い土壌以外は必要ない。過繁茂になると蒸れ(枯れ込み)が発生する。日陰では特性が発揮できない。

○ ペニーロイヤルミント{シソ科(ハッカ属)}

基本特性

 多年草。湿り気のある草地で育つ、冬は地面にしがみ付くよう(ロゼット状)に増えていくが、花の時期になると枝を持ち上げ輪状のきれいな花を咲かせる。切ったり踏んだりすると良い香り(強いミント)がする。

増殖法と栽培場の注意点

 水はけの良い、湿り気のある肥沃なアルカリ性の土を好みます。株分け、挿し木で増やす。

○ クリーピングタイム{シソ科(イブキジャコウソウ属)地中海沿岸~中国・ヒマラヤ}

基本特性

 多年草。株元は木化する。イブキジャコウソウの仲間で、立ち性のものもあるが、大半はほふく性であり、花茎が出ても10cm程度。マット状に密生するので芝生の代わりに用いられる。

 花はピンクで5~7月に開花する。群生して芝生状となり、雑草抑制力が強い。葉に精油成分チモールを含み、踏みつけたり葉をもむと良い香りがする。天端にも法面にも向く。

 乾燥に強いが高温多湿を嫌う。水はけの良い弱酸性の土を好む。

 料理、ハーブティー、ポプリ、入浴剤として利用できる。消化を助け、精神をフレッシュにする作用があるといわれ、ハーブの王様とも呼ばれる。

増殖法と栽培場の注意点

 種子の直接播種が可能であるが、苗の移植、あるいは挿し木で増殖することも多い。その時期は、4~6月あるいは9~10月が適する。株分けも4~6月あるいは9~10月がよい。

 株は、横に広がるので植え付けるときは、株間を十分に開ける。株が密生すると蒸れて枯れることがあるので、刈り込むか株分けして風通しを良くする。

事業費

 15年度 10万円前後

事業の継続性

 結果が分かるまで、最短で3年であり、3~5年間の事業となる。

 3年目から普及事業も絡む可能性がある。

愛谷江筋起工330周年記念事業の一環として、地域住民や子ども達と一緒にアジサイを育て水路敷に植栽、管理して交流を深め、土地改良施設の役割、重要性を再認識してもらい、地域の偉大な遺産である「愛谷江筋」を後世に受け継ぐ。

○ 運動の展開

 (1)あじさいの提供を協力してもらう。

 (2)あじさいを挿し木により増やす。

 (3)あじさいを育苗ほ場(畑)に移植し育てる。

 (4)水路敷などに植栽する。

 (5)植栽されたあじさいの管理

 (6)あじさい祭り(イベント)

愛谷堰見学と水生動物観察会(H10年度より)

 愛谷頭首工は、魚道を完備しているが、ある意味、魚など水生動物の格好の住処であり、施設構造上、底版が平で水深が数cmの所や下流護床工の間も約40cmで子供でも安全に触れ合うことが出来る場所である。

スロープを設置すれば、車椅子の方でも、魚取りが出来ると思っている。その光景を見るのが私どもの夢でもある。

 子供会などの行事として利用することも可能です。

 愛谷頭首工や愛谷用水路の歴史、役割、規模を説明し、操作室及び遠方操作室に入り構造や操作について説明を致します。