水守神社

 神社創建は、昭和26年3月15日(宗教法人令による届出に依る)全面改築による神殿輪奐創成は、昭和30年5月17日。社名は水守神社と称するが、祭神は三森治右衛門光豊命である。即ちその姓は三森で社名の水守と甚だ語呂が合うことは洵に奇しき因縁と申すほかはない。水守の語意は古来神代のむかしより「天之水分神(みくまりのかみ)」というなど深遠なる神観概念の伝統を引くものと云えよう。実に灌漑面積510余町歩の水を守り育て給いし有り難く忝き生き神で有り給えた。

 命は平藩主内藤公の微臣なりしが、沢村勝為公を助けて共に小川江を穿った人である。いま、しばらくその実績を尋ねれば次の如くである。

 命は寛永13年(1636年)4月7日、平鎌田なる工匠光隆の子として生まれる。16歳にして時の平藩主内藤忠興公(内藤氏五代、平藩主二代)に出仕し、三森内匠と称し、沢村勝為の下にあって小川江開削工事に従事したが、主勝為故あって藩公より死を賜り、自刃して果つるや(明暦元年7月14日)命、慨然として奮起し身を以て之れに任じ、大室、大森の二洞を穿つ。

 かくのごとき貴重なる経験を以て藩命(六代義慨公)を受けた命は、延宝2年(1674年)3月、39歳の男盛りで工を愛谷に起し、夏井川に堰し、愛谷堰の開削に従事する。先ず76間の岩脚を洞して水を容れ、水勢を奔放せしめ東南川中子に走る。好間川に槽(樋)架すること170尺、水めぐりて平町の東に出る。支流は平町の西を貫きて長橋に灌ぐ。幹流は更に東して槽(樋)を古川に架し、専称寺の麓をめぐって山崎・菅波・荒田目・上下大越・藤間を潤おす。下高久に至り槽を荒川に架し、余流を導きて沼之内に注ぐ。この間紆余曲折4里5町余に及ぶ、この間、閘門を設くる大小14、灌田実に510余町歩。小川江と並んで当地方の水利ほぼ全きを得五穀豊穣に導かれた。命の功筆舌のよく及ぶべきものではない。

 逸話に次の事あり。小川江、愛谷江開削に指導的役割を果した光明寺住職観順和尚は殊の外命を信頼したという。蓋し命は人格円満、達識の士たりしことが窺われる。工事延長4里に余り灌田500町歩に余る長さと幅、而かも数年間[延宝7年(1679年) 完成という][大国魂神社【石室記】に『延宝7年春ここまで開削した』との記事がある]に及ぶその間の労苦は並大低ならず人夫を統率する人徳とその技術また卓越せるものあったであろう。元禄7年(1694年)11月17日、58歳を以て世を去られた。天寿を全うせりとは申さざるまでも、主勝為公の如く悲憤の死に遭遇しなかったのはせめてもの慰めであろう。

 測量には、特に夜間は提灯を用いて高低屈曲の度を測った時代であった。その他土砂の掘削運搬、岩石の破砕等その技術・機械器具の能力に於ては現代の何万分の一にも満たぬ時代であった。後世磐城処士大須賀次郎(父は当代一流の儒学者神林復所。子は明治、大正の俳壇に勇名を馳せた大須賀乙字。【磐城史料】その他多数の著あり、また書画を好くした)をして『三森扇の功、後に加ふるなし』と感歎せしめた。

 今日のいわき市、もとの十三ケ町村510余町歩は主として命の恩沢を享けて居る。今人は固より子孫永世に亘り命の神恩を仰ぎ謝すべきである。